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大坂幕末観光!! その2 ~花外楼から適塾~

 

ども。 亜門沙理奈です。

 

6月26日に行った「大坂幕末観光」の続きです。

今回もサクサク行きますよ~。smile

 

天神橋を後にして向かったのは花外楼

現在も近代的なビルの1階で営業されてます。

そのビルの壁面にこんなものを発見!sign03

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↑ 三権分立のレリーフ

 

いや、実は随分前にも見たことあったんですが、その時は幕末に興味もなくて「あの人たち、誰?」って思ってたんですよ。

アメリカの崖にある歴代大統領の彫刻 『マウント・ラッシュモア』 の真似みたいなものかな? と思ってました。

(左下の伊藤博文だけは、辛うじて分かっていたのでsweat01

 

レリーフは左上から、大久保利通 ・ 木戸孝允(桂小五郎) ・ 板垣退助 ・ 伊藤博文 ・ 井上馨。(だよね、多分・・coldsweats01

 

明治8年(1875)、大久保利通が前参議の板垣退助 木戸孝允らと会合し、明治の立憲政体の基礎を確立した「大阪会議」を開いたのが花外楼です。 

 

 

その花外楼 本店。down

 

↑ 花外楼 (オンマウスで正面玄関になります)

 

私の中のイメージはshine超高級料亭shine様ですね。

なので、外から指を咥えて見てるだけです・・・。

(;´д`)トホホ…

 

 

・・・誰か連れて行って!!

。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

そして奢って!!!!!

(↑ ココ、重要sign03 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

あ~、コホン。(*´ェ`*)sweat01

すみません、取り乱してしまいました。

ヾ(´ε`*)ゝ エヘヘ

 

・・・では、気を取り直して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花外楼は幕末の創業で、初代伊助の先祖が加賀の庄屋だったから最初、加賀伊としました。

やがて長州藩の密談場となり、新選組が切り込んだという逸話も残ります。

 

↑ 花外楼の看板

 

玄関には、大阪会議開催の地碑杉道助の書による銅版の碑文があります。

加賀伊」は大阪会議の成功を記念し店名を変更、木戸孝允の揮毫した「花外楼」になりました。

 

 

さて、ここから更に西方向へ移動、大阪証券取引所に行きます。

 

↑ 五代友厚の像
(オンマウスで大阪証券取引所になります)

 

大阪証券取引所は、寛保3年(1743)、金・銀・銭の3貨を取り引きし、相場をたてる金相場会所が設けられていた地に、明治11年(1878)、五代友厚ら大阪の財界人によって設置されました。

 

五代友厚は薩摩藩士でヨーロッパへ留学。

大阪在勤を命じられたのは、明治元年(1868)1月のこと。

大阪川口居留地の開設、金銀分析所の創設、堂島米商会所大阪株式取引所大阪商法会議所(← 後で行きます)、大阪商業講習所(のちの大阪市立大学)の設立など、大阪の近代化に尽くしました。

 

いわば、大阪経済界の大恩人! 控えおろう! ははぁ~・・・ m(_ _)m な訳ですが、私はこの人のこと全く知りませんでした。

「これを機に、名前だけでも覚えておこうと思いました まる」

(↑ 心こもってねぇ~~!wobblysweat01

 

冗談はさておき。(冗談かよ・・・coldsweats01

 

 

道路を渡って西、りそな銀行前に大阪俵物会所跡碑を見つけました。

 

↑ 大阪俵物会所跡碑

 

最近、石碑を見ると、ふらふらと吸い寄せられてしまう私。

「あれなに~?」と、この石碑にも吸い寄せられて行きました。 

 

大阪俵物会所ははじめ備後町に置かれましたが、安永6年(1777)に移転、明治までこの地にありました。

俵物(たわらもの)と呼ばれる干しあわび・干しなまこ・いりこ・ふかひれ等は、当時の日本の特産品で長崎から中国などに輸出。

この俵物は輸出入の代価に用いられることもあったので、会所が設けられ売買が行われました。

 

 

少し脱線しましたが本筋に戻って、、、

ここから南へ移動、旧鴻池家本宅跡へ行きます。

 

↑ 旧鴻池家 本宅跡碑
(オンマウスで画像が変わります)

 

現在、大阪美術倶楽部のある横に旧鴻池家本宅跡碑はあります。

 

鴻池家は酒造・海運業から諸藩の掛屋・蔵元となり、大名貸し専門の金融業に成長。

この辺り一帯は鴻池家の持ち地所でした。

 

当時、市中では金策の志士に悩まされていましたが、文久3年(1863)、鴻池にも数人の浪士が来たところ、通報を受けた近藤が、土方山南を派遣、賊を斬り伏せました。

この時、鴻池から200両を受け取り、元治元年(1864)、新選組が長州征伐のため資金集めをしていた時には、鴻池は加嶋屋とともに1200貫匁の最高額を引き受けたり、慶応3年(1867)には400両を貸し出すなど、新選組にとって有力な資金源となっています。

 

別に何がどうって訳ではないのですが、何だか少しニヤニヤsmileしてしまう私なのでした。

 

 

鴻池家跡を西に行くと、除痘館跡胴座跡適塾 があります。 

 

 

↑ 小さい画像はクリックで大きくなります

 

写真上 除痘館跡のレリーフ

写真下 左 胴座跡・愛珠幼稚園  右 適塾

 

適塾の中は以前見学したので、今回は外観のみ見学。

(適塾レポは2009年2月「ランチの後に・・・・」をご参照ください)

 

適塾の写真、左端に緒方洪庵の坐像があるんですが、その像の前でしばし輩になって来ました(笑)

まぁちょっと色々ありまして・・・coldsweats01 

 

 

緒方洪庵適塾で多くの塾生に蘭学を教える傍ら、除痘館を設立。

除痘館では死亡率が二割を超える恐ろしい伝染病であった天然痘から子供たちを守るため、牛痘種痘法による予防接種活動を行いました。

これは日本における予防医学の原点ともいえるものです。 

(除痘館の説明書きから抜粋)

 

 

胴座は江戸時代、長崎からオランダへの主要輸出品であった銅の精錬と専売を司る役所として、明和3年(1766)に設けられました。

その跡地に明治13年(1880)、大阪最初の幼稚園が開園したのが愛珠幼稚園です。

現園舎は明治34年(1901)竣工の木造建築で、重要文化財に指定されています。

 

本当なら適塾の塾生、福沢諭吉誕生の地にも行ったりするんでしょうが、雨のせいで移動もままならず・・・。

今回は断念しました。

 

↑ 福沢諭吉誕生地碑
(写真は2008年9月に行った時のもの)

 

 

・・・と言う訳で、今回はここまで。

あと一回、お付き合いください。bleah

 

 

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参考文献

 ・ 新選組史跡事典(西日本編)

 ・ なにわ大阪 今と昔 絵解き案内

 ・ 幕末歴史散歩 京阪神篇

 

↑ 3冊目の「幕末歴史散歩」は私も持っていますが、これは便利です!happy01

東京篇もあって、そっちも持ってます(笑)

でも私が買ったときには、どっちもこんなお茶目な帯はついてませんでした。

暦女のおかげ?(笑)

 

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